【横浜市・港南区・歴史】神奈川県 お城巡り探訪記・笹下城の空堀跡|合同会社システマちっく不動産
2022/11/21
いつもお世話になっております。
KEIAI港南中央不動産センター、合同会社システマちっく不動産の馬場通友(ばば みちとも)と申します。
当社の代表をしています。
さて今回の投稿は趣味である城巡りの第3話となります。
笹下城はシステマちっく不動産から歩いて26分ほどの場所にあります。
【今回のお城】 笹下城(の空堀跡)
城郭構造 山城
天守閣 なし
現在 空堀だけが、かろうじて残っている
築城者 間宮豊前守信元(まみや ぶぜんのかみ しんげん)
【エピソード】
かつての笹下城、それは地元の古刹「真宗高田派 梅花山成就院」のあたりの高台を中心として築かれた戦国時代のお城です。
しかしこのお城、充分な調査が行われないうちに、開発の波に吞み込まれ、詳細は不明となってしまいました。
そうした経緯もあり、このお城は、「幻の笹下城」とも呼ばれているのです。
このお城を築いたのは「間宮豊前守信元(まみや ぶぜんのかみ しんげん)」であったとされています。
彼は、小田原北条氏の家臣として、主君に忠誠を誓い、ひたすら実直に仕えました。
間宮信元が笹下城を築城するにあたっては、「谷津構え」と呼ばれる独特の造り方をしました。
「谷津構え」とは、山あり谷ありの地形を利用した造りのことを示すそうです。
実際にかつて笹下城のあった場所から周囲を見渡すと、山あり、谷あり。
そして谷間のあいだにはいく筋もの川が流れています。
(尤もいまは一部暗渠となっている場所もありますが…。)
宅地開発で、かつての面影は微塵もありませんが、起伏の激しさはいまもなお残っています。
この、元からある自然の険しい地形を活かして、敵陣からの攻撃に備えているのですね。
笹下城、天然の地形を活かした上に建造されているという、とても合理的なお城だったんでしょうね。
そして、険しい丘陵地帯の上に聳え立つ様子は、想像しただけでもワクワクしますね。
さて、その間宮信元が仕えた小田原北条氏は、豊臣秀吉によって完膚なきまでに、滅ぼされました。
豊臣氏が攻撃を仕掛けたのは箱根にある「山中城」。
「山中城」は北条一族にとって、箱根の牙城でした。
戦火の中、間宮一族は必死になって主君の牙城を守るべく、勇猛果敢に戦いました。
その天晴れな戦いぶりは、壮絶を極め、世の称賛を集めました。
じつはその称賛を集めた必死の戦いぶりに、ことさら高い関心を払った人物がいました。
その彼こそ、かの徳川家康です。
当時家康は、敵陣の豊臣側についていました。
敵とはいえ、その戦いぶりに感銘を受けていたのです。
それから後世、家康は名実ともに天下統一を果たします。
じつは間宮氏は、かつて豊臣氏から攻撃を受けたときに、一族もろとも滅ぼされたわけではなく、なんとか生き延びたそうです。そしてその残党は笹下に残っていました。
その笹下にいる間宮一族に、家康は声をかけ、多くの者を「家臣」という重要なポストにヘッドハントしたのです。
結果、間宮一族はかつての敵によって名を残し、重用されることになったのです。
敵のこころも動かし、多くの称賛を浴びた間宮一族。お見事でしたね。
さて間宮一族からは、多くの有名人が世に輩出されました。
間宮海峡を発見した間宮林蔵。
オランダ医学をはじめて我が国に移入した杉田玄白。
………輝かしい一族ですね。
現在の笹下城は見る影もありません。
ただ唯一その面影を垣間見ることができるのが、笹下城の空堀跡です。
いまは道路になっていますが、空堀そのものです。
まぁそこは、なんてことのないただの道路です。
しかし見る人が見れば、歴史の息吹を感じさせる場所だと思います。
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